カーヴェリ川長治の南インド映画日記

アクセスカウンタ

zoom RSS 【Ijjodu】 (Kannada)

<<   作成日時 : 2010/05/09 21:39   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 2

 カンナダ映画は娯楽映画部門では分が悪いものの、アートフィルム部門ではなかなか健闘しており、その点ではタミルやテルグの上を行くのではないかと思われる。近いところでは、ギリーシュ・カーサラワッリの【Gulabi Talkies】(08)が国内外のいくつかの映画賞を獲得したし、今年は【Mukhaputa】という子供のエイズ感染の問題を扱った作品が話題となった。

画像

 この【Ijjodu】も今年のアートフィルムの注目の1本だった。
 監督のM.S. Sathyuという人は、そろそろ80歳になる老大家で、メガホンを執るのは実に12年ぶりとのこと。
 左翼系知識人の彼は、現在ではさすがに隠居に近い状態だが、盛期には映画・演劇の分野でかなり活発な創作力を誇り、代表作のヒンディー語映画【Garam Hawa】(73)はカンヌ映画祭のパルム・ドール賞にもノミネートされたほどらしい。

 そんなサテュ監督が今回取り上げたのは「デーヴァダーシ」の問題と、これまた重たいテーマだ。
 「デーヴァダーシ」というのは、インド文化に馴染んでいる方ならご存知のはずだが、「神に仕える者」を意味する言葉で、そもそもの起源は寺院に仕えて伝統舞踊や音楽を継承してきた人々のことを指したが、時が下って堕落化し、現在ではインドの様々な地域で土着信仰と結び付いた因習として残り、寺院売春の担い手となっている人々のことを指す。
 実は、カルナータカ州はデーヴァダーシの因習が根強く残る地として有名で、主にエッランマ女神信仰と結び付き、ベラガーウィ(ベルガウム)、ビジャープル、ライチュール、バッラーリ、フブリなどの地域に今も2万人以上のデーヴァダーシが存在するらしい。彼女たちは、初潮を向かえる前に、何らかの理由(例えば、家庭が貧困であるとか、その娘にハンディキャップがあるとか、村に疫病などの凶事が起きたとか)で「デーヴァダーシ」に指定され、イニシエーションを受けた後、寺院の神に仕える身となるのだが、実際には売春や単純労働に従事させられることになる。
 こうしたシステムは近代的な人倫の観念からすると人権侵害に当たり、インド全体では1988年に、カルナータカ州ではそれより早く1982年に法律で禁止されているのだが、根絶にはほど遠いようだ。

 そうした根深い問題を、80歳のインテリ映画監督がどう扱っているのか、大変興味深い。
 実は私は、縁あってカルナータカ州に在住している者として、デーヴァダーシとはどういうものか一度は見てみたいと思っているのだが、興味本位で見物に行くようなものではないし、また、現地に行ったとしても、果たしてデーヴァダーシの人に会えるのか、何らかの儀礼を見ることができるのかはまったく見当が付かず、今のところ何もアクションを起こしていない(しかし、サウダッティのエッランマ寺院の参拝ぐらいはしたいと思っている)。そんな訳で、この映画の登場は大変有り難いものだった。
 (写真上:監督のM.S.サテュと主演のデーヴァダーシの娘を演じたミーラ・ジャスミン。)

【Ijjodu】 (2010 : Kannada)
監督 : M.S. Sathyu
出演 : Meera Jasmine, Anirudh, Ramakrishna, Sathya, Arundathi Jathkar, Nagakiran, Mandya Ramesh
音楽 : Manikanth Kadri
撮影 : G.S. Bhasker
制作 : Reliance Big Pictures

《あらすじ》
 アーナンダ(Anirudh)は都会育ちの現代的な考えの持ち主。彼は写真家として、古建造物の研究をするために、カルナータカ州のとある辺境の村にやって来る。この村で彼は村の長バイラッパ(Ramakrishna)の家に寄宿する。この家にはバイラッパの娘チェンニ(Meera Jasmine)も暮らしていたが、アーナンダは彼女の不思議な魅力に関心を持つようになる。
 この村にはバララーマ(Sathya)という風変わりな男もいた。彼はいつも軍服を着、不可解な言動で村人たちを当惑させていた。バララーマについて問うアーナンダに対して、チェンニは彼の悲痛な過去を語って聞かせる。
 ・・・
 バララーマにはケンピ(Arundathi Jathkar)という妻がいた。ある日、軍人のバララーマは北部の戦地に出征することになる。時が過ぎて、ケンピの許にバララーマ戦死の報が届く。かねてよりケンピに思いを寄せていたウェンカテーシャ(Nagakiran)が彼女の世話をするようになる。やがて、二人は村の評議会の賛同を得て、結婚する。
 しかし、バララーマ戦死の知らせは誤報だった。彼は生きて村に戻って来るが、生憎とケンピがウェンカテーシャと再婚し、妊娠までしている事実を知る。ショックで気の触れたバララーマは、以来、正気に戻ることはなかった。
 ・・・
 ある晩、チェンニがアーナンダの部屋にやって来、彼に自分と性交渉を持つよう要求する。実は彼女はデーヴァダーシだったのだ。困惑したアーナンダは、チェンニに「それは古い誤った習慣で、君はそこから抜け出し、新しい人生を始めなければならない」と説得する。だが、「それなら、あなたが私に新しい人生を与えてくれるか」と問い詰めるチェンニ対して、アーナンダは黙り込むしかなかった。
 翌朝、寺院の溜め池の石段で、飛び降り自殺したチェンニの遺体が発見される。アーナンダは、彼女を殺したのは自分だと、強い罪悪感に苛まれる。

   *    *    *    *

 私はM.S.サテュという人がどんな考えの持ち主で、これまでどんな強度で自分の意見を表明して来たかは知らないのだが、人も80歳にもなると多くは語らなくなるようで、映画は90分と短い上にシンプルで含みの多い描き方をしているものだから、監督が決定的に何が言いたいかは非常に分かりにくい。
 デーヴァダーシの問題を扱っているといっても、この制度について説明的に描かれている場面は一切なく、この問題がはっきりとした形で現れるのは、クライマックスでアーナンダとチェンニが交わすほんの数分程度の会話だけだった。
 言葉足らずの感が強いが、足りない分は自分で考えなさい、ということか。もっとも、人権団体のパンフレットのような映画を観せられるより、このほうが有り難いとも言えるのだが。
 
 題名の「Ijjodu」という言葉は「両立できない」という意味で、これから推すと、サテュ監督は、デーヴァダーシ制度のような伝統的な価値観と近代的な価値観が相容れないもので、同じ土俵では語れず、一方が他方を単純に批判しても問題が片付くわけではない、と考えているのではないか。都会から来た近代的教養人であるアーナンダがチェンニの考え方を批判し諭しても、結局チェンニは混乱して自殺するだけで、アーナンダ自身も自分の言動を悔いる結果に終わっている。宗教に根を置く伝統的因習に対して、世俗的な近代思想は無力だ、と言っているかのようだ。

 それも無理はないことで、村という特殊な環境と都会とでは、同じ感覚では語れないことが多い。
 例えば、バンガロールのような都会でも、あちこちに寺院・モスク・教会があり、住民もほぼ何らかの神仏を信仰しているものだが、かといって、神様のことを日々忘れていたとしても生活には特に困らない。しかし村の場合は、この映画の中でも印象的なシーンがあったが、アーナンダを村長の家に送り届けた牛車の親爺が「神様というのはどこにでもいるさ、動物の中にも、草木の中にも、川の水の中にも風の中にも」と言っているように、汎神論的な世界観の中に生きている(と、この映画では設定されている)。こういう空気が一掃されない限り、「デーヴァダーシのような悪習は止めるべきだ」という考えは根付きにくいだろう。

 しかし、かといってサテュ監督が「デーヴァダーシは存続するしかない」言っているわけではないはずで、じゃあ、どうかと言えば、結局は村の「自浄作用」のようなものに期待をかけているのかな、とも思える。
 この作品はチェンニとアーナンダの物語の他にケンピとバララーマのエピソードがあり、結構大きな割合を占めているのだが、この2つの関係がこれまた分かりにくい。で、このエピソードを通して監督は何を言いたかったのかな、と考えるに、この村は盲信に囚われた人ばかりの集まりではなく、意外と合理的な決定力も持っている、ということを示したかったのではないか。
 【Nayi Neralu】(06)というカンナダのアートフィルムを観て驚いたのだが、カルナータカ州でも村落部は寡婦に対する差別的風習が残っている地域があるようだ。しかし、この【Ijjodu】ではケンピは寡婦になったにもかかわらず、そうした差別的扱いは受けず、サティー(寡婦殉死)のようなことも強要されず、逆にパンチャヤトによって再婚を認められ、村人らに祝福されているのである(これはバララーマの発狂という皮肉な結果を生んだが、それはケンピの罪ではない)。これからすると、村人の主体的な判断でデーヴァダーシが廃絶される可能性もあるとサテュ監督は見ているのかな、とも思えるのである。

 ただ、そんな単純なことを言いたいためにこの御大が12年ぶりにメガホンを執ったとも考えにくく、ここは何かウラがあるかもしれず、もしかしたらカースト批判の問題なども念頭に置いているのかもしれない。(正確には、安易にカースト批判をしている人への批判、ということだが。)
 本作では、舞台となっている村や寺院、神格の名前が特定されていない。カルナータカ州のデーヴァダーシといえば、まずエッランマ女神と関連付けられ、地域も北・北東カルナータカとなるはずだが、実はエッランマ信仰の主体は低カースト者のコミュニティーで、あからさまな形で「あなたたちの習慣は間違っている」と批判すれば、5倍ぐらいの迫力で反撃されかねない。それを避けるためにあえて名前を特定しなかったとも考えられる。
 それで、近代的な人権思想に即して、外部から「カースト制度は廃止すべきだ」、「カーストによる差別は止めよう」と単純に言うことはできても、当事者たちから「じゃあ、あなたは私たち(低カースト者)に何をしてくれる? 私と結婚することができるか?」と応酬されたら、「それとこれとは話が別で、、、」ともなりかねない。
 上のあらすじに書いたアーナンダとチェンニの会話は、どうも私には被差別民に対する似非インテリのこうした態度への風刺とも思われるのである。

 とにかく、この作品についてはいろいろな解釈ができると思うが、デーヴァダーシ制度そのものに対する批判というより、それを批判している人々への風刺という色合いが濃いのではないか、と私には思われる。

◆ 演技者たち
 演技面は総じて評価できる。
 チェンニ役のミーラ・ジャスミンは、村の特異な存在を微妙な空気を漂わせながら完璧に演じている。彼女はカンナダ語を母語としないのだが、今回は頑張ってセリフも自身でアフレコしている。(ということは、国家映画賞狙いか?)

 アーナンダ役のアニルッドは故ヴィシュヌヴァルダンの娘婿。といって、サンダルウッドで目立った活躍をしているわけではなく、私も本作で初めて見た。
 特に芝居が上手いとも思えなかったが、まずまず役柄をこなしている。
 (写真下:アニルッドとミーラ・ジャスミン。)

画像

 脇役陣も良かったが、バララーマ役のサティヤという人は初めて見たが、かなり鮮烈な印象を受けた。

◆ 音楽・撮影・その他
 音楽はマニカーント・カドリ。先日紹介した【Prithvi】と、2作続けてこの人の音楽を聴くこととなった。
 作品の性格上、音楽シーンがばんばん登場するというものではないが、内容に見合った美しい音楽だった。

 撮影も良い。
 映画の冒頭に、なぜか前衛舞踊のようなダンス・シーンがあるのだが、意図不明だった。

◆ 結語
 【Ijjodu】は、素っ気ない作りで、映画としてそう面白いものではなく、内容的にももう二押しぐらいほしいところだが、こういうインドのディープな側面を見せてくれる作品も珍しいので、もし観る機会があるなら、迷わず観ておくことを勧める。

・満足度 : 2.5 / 5
 

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
深い関心をもって拝見しました。

小生は常々英米の近代主義者とそれに追随するインドの開明主義者からなされるデーヴァダーシス批判は、一方的でありきちんとした反論がなされるべきものと考えておりました。

その意味でたいへん興味深い映画ですし(芸術映画はこうでないといけないはずです)川縁先生のレビューにも啓発されるところが多々ありました。

たぶんディスクにはならないだろう映画ですから余計に貴重な情報になっています。有り難うございました。
メタ坊
2010/05/10 09:18
コメント、ありがとうございます。
メタ坊さんにはぜひご覧になっていただきたい作品です。

>たぶんディスクにはならないだろう映画ですから

なぜか制作が大手でアクティブなReliance Big Picturesなので、もしかしたら、すんなりとDVDが出るかもしれません。
 
カーヴェリ
2010/05/10 11:17

コメントする help

ニックネーム
本 文
【Ijjodu】 (Kannada) カーヴェリ川長治の南インド映画日記/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる